カルアミルクを飲みたい。

普通の人間になりたかった底辺学生の雑談。

ボンバヘッドの嫉妬ファイヤー!!!

突然の小原鞠莉感。

 

 

頭が痛い。


研究室にいるとこうなる。
パソコン見てスマホ見て顕微鏡覗いて。
扱うサンプルとかは基本的に1ml以下。


そりゃ肩は凝るし目は疲れるし頭が痛くなるのも当然である。

 

それにこの研究室、空気が悪い。正直いろんな意味で。
まじな話。自分無理っす。

 

 


別に皆さん仲は良いと思うのだけどね。
私があまり溶け込んでいないという感じ。
別にその必要がないし。むしろそうすると自分が傷つくだけだと思っているから。

 

 

答えなんてわからないけど、無理はする必要はないかなって感じ。

 

 


何でそうしてるかって、嫌いな人間がいるから、ってそれだけの話。
学生ならともかく、スタッフだからねえ。
口にも出したくないし。だからこうやってここで話している。

 

 

 


まあそれは置いといて。
この空気の悪さも相まって体調がすぐ悪くなるのである。
空気が悪いのは窓あかない、暖房効きまくりってのが大きい。

 

何でこんな部屋になったのか。
居室くらいいい部屋にしてくれよ。
せめて空気清浄機。

 

 

 

 


辛いっす。
ほんまに。
昔の辛さに比べれば屁でもないのだけど。

 

 

 

辛さに対するキャパシティが低下しているのは事実だ。
昔のキャパシティはおかしかった。

 

辛抱強いといわれるだけはあったと思う。

 

 

そんなんだからあふれだしたときの反動がすごくてね。


大けがをしてしまったのだよ。

 

今はその分こまめに吐き出すようにしているからある意味では大丈夫。
ただ何が問題って、効率が悪い。

しょっちゅう気分を害して、機嫌が悪くなって。
そのたびにこうやって吐き出して。

吐き出し方が下手だから、吐き出してもうまくいかずに結構な期間引きずっている。

 

 


まあぼちぼち慣れていきましょ。

 

 

こんなの書いているの見られたら嫌やからさっさと投稿しまする。

 

 


また書くよ。だってしんどいもん。
来月からもっとしんどくなるんやろなあ。

 


死にたくないのに死にたいって自然と口から出る。
無理になおさなくてもいいかもしれないけど、そういうの続くのは良くないよね。

 

 


まあいいや。
ばいちっ。

 

 


今日もいい日だっ、なんて言いたいよ。

 

 

 

 

 

暇なのだ。

また更新する。暇なのだ。
今日もまた突然変な話をする。

人が死ぬこと、それは機械が壊れて使えなくなることと同じなのではないかと考える。
人に限った話ではない。生命の話だ。
本来は機械が生命と同じような話だと言うべきなのだろう。
機械自体が人間という生命が生み出したものなのであるから。
人間は生命が死ぬということを何か神秘的なことと考えてしまうのだ。
だから人間が死ぬ、最近ではペットが死ぬということも当てはまるのであろうが、ということは、
特別なこと、大切なこと、他とは違うこと、ととらえるのではないだろうか。

人間は自分を特別だと思っている。
そんなことはしょうがない。
この世界で、この地球上でもっとも文明的に発展しているのが人間なのであろうし、
他の生物を管理しうるのも人間であろう。
恐らく人間がほとんどの他の生物の上に立つことになる。
こんなことを考えるのはきっと簡単なことだ。

人間にとって当たり前のことだから。


生物の頂点に立ち、食物連鎖によって他の生物に捕食されることもない。
捕食されない理由として、人間が文明を持ったことがあげられる。
文明を持ち、社会性を持ったこと、これにより、自分より大きな生物にも太刀打ちできるようになった。
また、他の生物と共生するという選択肢を積極的にとるのも人間だ。餌となる生物を自らの手で育てる。
これも立派な共生かもしれない。

だからこそ、人間は他の生物と違って捕食される恐怖、つまり死を身近に感じない。
これが人間が人間の死を特別視する理由であろう。
そうなのだ、人間が死ぬということは他の生物と比べても特別なことなのである。
特別というよりは、起こりにくいことなのである。これは事実である。

ペットも、人間から守られているという点では、やはり特別なのかもしれない。

 

さて、次の話だ。


我々は何のために生きているのか。


おそらく答えはない。
生きるという行為自体が能動的なものではなく、受動的なものであるから。


我々は生かされているのである。ある程度無理矢理。
生命現象という謎めいた機能により。
我々は機械とおんなじ。
たまたま人間は考える頭があって、感情とかなんとか手に入れてしまったから面倒なのである。

もちろん自ら死ぬこともできるが、本来備わった危機管理的な能力で必死に抑えられる。
それが機械的に行われているのである。

生命は少し柔軟な機械というのが妥当であろう。

 

その中で感情とか社会性とかそんなくだらないものを手に入れてしまった我々は、
無理矢理生かされているという事実から目を背けるために生きる理由なんかを考えてしまうのだ。


そもそも我々に能動的に生きる理由などないのだ。
あるとすれば、我々を動かしている機能がなぜ働いているのか、
その理由が我々が今こうして生命活動を行っている理由なのであろう。

 

 

結局、人間は人間の言葉でいう機械とほとんど変わらないのである。
人間の言葉でうまく言えば感情のある機械であろうか。
動くコンピューター。それでも良い。


人間以上の文明というものを見てみたいものである。
そもそも人間が価値があると思っているものが人間が創ってきたもの。
人間以外が人間の文明を超えることはおそらくできないのだろうけど。


どういうことかといえば、人間が創ったものは人間のためだけのもので、
アリのためのものではないということ。例えばの話だ。


だから何が見たいのかといえば、人間をいとも簡単に食い物にする存在である。
存在するのかはわからないけど、広い宇宙を探せば見つかるんじゃないかなって思ってる。

見つける前に見つけられそうだけど。


まあ想像の世界かもね。でも本当にあったら面白い、それくらいの話。
きっとその生命体(?)も我々と同じく機械みたいなものであるのだろうけど。

 

終わろう。
適当に書いてるとまとまらないしグダグダ。
ああ、文才がほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暇だからまた書く。

調子に乗っているのでは?と思うことがある。
ふとした時だ。


あのとき周りに少しだけ冷たい反応をされたのは自分が調子に乗っているからとか、
過去のいろんなことを思い出すたびにそう思ってしまう。

 

あと思ってしまうことは自分の中で家族以外で一番の人物はいても、
他の人にとって自分が一番になったことってないかもしれない、ってこと。


私は嫉妬深いというかやきもちを妬くタイプなのである。
自分にとってあいつは一番の友達のはずなのに、あいつにとって自分は一番じゃない。


そんなの当たり前である。
やっぱり自分メンヘラだったのか。

 

落ち込むばかりである。

 


まあそこら辺の思考回路はどうでもいいとして、
果たして私は誰かの一番になったことがあるのか、ということである。


愛されていたのか、ということである。
いよいよメンヘラが牙をむいてきた。

 

 

大変である。

 


周りからは、それなりに愛されている気はする。
でもそれは自分が振りまいている愛よりも少ないと感じてしまうのである。


一方であまり好きではない人に好かれる場合は大変だ。
自分があまり愛を振りまいていないのだから。


そこら辺を鑑みれば私は対等な立場を築きたいのだろう。
ただそれだけ。

 

後者に対しては自分がその人の良いところを見つけて時間をかけてでもいい関係にしていけばよい。
私は基本的に人を好き嫌いで見ないので、その辺は可能である。


得意か、不得意かで見るのである。まあでも基本的に、である。嫌いな人間もいる。もちろん。

 

 

さて、前者についてである。
私にとっては好意の対象である。
愛を振りまく量を減らせない。
この辺はヤンデレなのである。
好きな人間は病的に愛してしまうのかもしれない。
色々なことを理性で抑えているのは確かであるが。

 

昔言ったことがあるのだが私はメンヘラでヤンデレツンデレである。
とんだ変態だ。最後のツンデレはなんかかわいいけど。

 


さて私はヤンデレ的愛の提供をするのだが、
私はメンヘラでもあるのでその
対等以上の愛を求めるのだ。

 

愛されたい、ただのかまってちゃんであるのは間違いない。
でもその分、私は様々な形で愛を提供している。
だからその分の愛を提供される権利は有しているはずだ。

 


そんなことを言いたいのではないのだが。

 


なんというか、なぜそれだけの愛を振りまいておきながら自分が納得いく愛を享受できていないのか。

 


先ほどの話を踏まえれば一つは自分の愛が大きすぎる。
それゆえに求めるものが相対的に大きくなってしまう。
そしてもう一つは自分の愛の大きさを過信している。
そんなところ。


視点を変えれば、私の人間性というところに落ち着く。

 


その話をしたいのだ。
なぜ私が愛されるに足りない人間なのか。


まあこの文章を読めばよくわかるのかもしれない。
私にはわからないけど。

 


私は”いたって普通”という概念からかけ離れている人間だ。

 

 

だからこそこんな文章を書いているのだ。


私がただただ鈍感で愛を感じられていないだけなのかも知れないけれども。

 

 


さてさて、この文章はだれに向けて書いているわけでもない。

 

自分に向けて書いているのだ。基本的に私が文章を書くのは自分に向けてである。


これを読んだ自分が、これを書いた自分が少しでも変わればいいななんて思う。
人に合わせて変えなきゃいけない世界なんて窮屈すぎてやってけないのだけどね。

 

 

 

 

 

 ただのメンヘラ小話でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日も書いてみる。

なんとなく今日も書いてみる。

 

昨夜久しぶりにこのブログページを開いたのをきっかけで過去の記事を読んでみた。

闇だった。怖かった。

 

実は公開していない下書きがいくつかあってそれも読んだ。

それもまた闇だった。怖かった。

 

なんか昔を思い出して泣きたくなった。

今はやっとあの時の状況を客観的に見れるようになったのかもしれない。

 

 

 

昨日の記事では少し病んでたけど、今日は大丈夫。

たまにああやって吐き出しているうちはきっと大丈夫。

 

 

なんか本当に自分が二人いる感じ。

 

どっちが本当の自分かわからない。

 

 

落ちついているときが長くなればいいのだけどそんなことはなくて二か月に二、三回くらいかな。落ち込む。些細なことで落ち込む。

 

 

そして感情が爆発する。

 

 

 

暴れたくなる。

 

でもやらないけどね。

 

正直自分が分からないよ。

この感情のコントロールなんて誰にも相談できない。

できないのではなくてできる人を探していないだけかもしれないけど。

 

 

何を言ってもしょうがない。

時間は止まらないし、それに合わせて自分も進まないといけない。

 

いつか昔のようにいつも笑っていれるようなそんな人間になりたいな。

 

無理かもしれないけど、一歩ずつ一歩ずつ進んでいきたいとは思う。

 

 

 

そうだね。

 

 

 

 

 

うん、頑張ろう。

 

 

 

 

 

本当にわからない。

どうすればいいか、どう考えればいいか。

考えても考えても答えが分からない。

 

今日もなんだかまとまらない。

いつも文章書くときは目的がはっきりしているからきっちりとまとまるのだけど。

 

まとまらないってことは自分の感情そのものがまとまっていないということなのだろうね。

 

 

いつかの自分が笑ってこの記事を見れていることを願っています。

 

 

かるあみるく。

更新してみる

更新していなかったらしい。

誰も見てないし、別にいい。

ツイッターでつぶやきすぎてそろそろブロックの嵐がやってきそうだからこっちに書いてみる。

 

相変わらず、精神はボロボロである。

楽しいことが続いているからなんとか保っているのであろう。

 

何をしていても失敗する。

それをじぶんが頑張ってないとか、能力がないとかそんな話ばっかりしてもうだめになるのである。

別に出来なくて当然だし、誰も何とも思ってねえよくらいの気持ちがよいのかもしれない。

 

あと三週間もすれば大学院生になってしまう。大学生活が終わるのだ。

だから何?って感じだけど。私はこの四年間でただただメンヘラになったのかもしれない。

 

 

ああ疲れた。

身体も心も。

別に今は楽しいよ。人生そんなもんじゃない。

 

でも楽しくない瞬間もあって、そんな時は周りにあるものをすべて壊したくなるし、そこらじゅうの人間を壊したくなる。別にそんなことはしないし、できないよ。

 

まあ生きていたいという感情があるうちは、の話だけどね。

いつそんな理性みたいな感情がなくなるかはわからないけど。

 

 

まあ10年後には私は何かやって牢屋の中かもしれない。

それが何であれ、私は後悔はしていないとは思うけど。

やったことはその時の自分に必要なことであったから。

 

冤罪とかだったらぶちぎれてそうだけど。

 

まあそんな話をしてもしょうがないし、気分が沈むだけだね。

 

 

まーた糞みたいなこと書いてる。

まあそれが私。社会からは必要とされてない。

べつに必要とされたいわけではない。

でも今はまだ生きていたいかなって思える。

 

 

そこまでは回復したよ。

 

でもそこまで。

 

 

 

まああと時間を共にしたいと思える人が家族以外にできたかな。

 

だからこそ生きていたいと思えるのだろうね。

 

 

そういう人がもっと増えれば、私も真っ当な人間に戻れるのかもしれないね。

 

 

 

今日は震災から6年。

もしわが身に震災が降りかかって自分が最善を尽くしたけど助からなかったとき、死に瀕した私はどう思うのだろう。

 

まあきっとこれも運命だ、なんて思うのだろうか。

普段はそう思っているけど、多分いざ死ぬってなったら発狂するかもね、

例えば拳銃を向けられたら小便漏らして泣いて命乞いするだろうね。

平気で友達とか売ると思う。

 

そんぐらい私はクズだよ。

 

 

自分さえよければそれでいい。そんなことを思う。

 

 

 

 

いつかこの文章を読み返した時、その時の私はなにを思うんだろうね。

こいつ、あほだなあって笑うのか、

このときからこんなことを考えていたのかって納得するのか。

 

 

良くわからないこと言ってるなあくらいなのか。

 

ただ一つ言えるのはこの文章をネット上に残す必要は全くないし、

これを将来的に読み返す必要もないということだよね。

 

 

まあ書いていてわかるけど話していることやばいし。

キモイし。どうすんの?自分、みたいな。

 

 

 

まあ人生って自分が主人公の物語じゃん。

主人公って極端なハッピーか極端なバッドしかないから。

 

つまりは最高の人生か闇に落ちた糞みたいな人生か、そのどちらか。

急に意味の分からないこといいだしたけど、そんなことも最近考えてる。

 

ちょっとは強くなったんだなあ、自分。

なんかいつの間にか1000字超えてて驚いた。

 

内容はないけど。

 

まあせいぜい気負わずに生きてや。

かるあみるくちゃん。

 

だーれも君なんかに期待してないよ。

 

 

 

 

なんとなく更新する。

久しぶりです。とか言っても読者はいないので特に誰に向けてというわけでもない。

こうやって文章を書くのは自分の気持ちを整理するためだけだから。

誰かに伝えたいとかそういうことはなくてただの自己満。

ただ誰か自分の文章を見て何かを感じてくれたらとかは思う。贅沢かな。

 

 

更新するのはおそら4ヶ月振りくらい。

何してたって?

 

 

うつでした。診断は受けてないけど。

医者行く前に限界が来た。そもそも医者に行く元気もなければ時間もなかった。

 

少なからず最後の更新から2ヶ月くらいは。

昼夜逆転して寝たきりになって、体重も10キロ近く落ちて最後には逃げた。

あの頃自分の生活は部活と寝るだけ。食事もない。たまに食べてたかな。

学校なんて行くわけない。いけるわけない。

いつも練習行って帰ってきて何もできずに布団で落ち込むというか自己嫌悪というか謎の時間に入って寝れない。寝れない。いつの間にか深夜でいつの間にか眠ってまた起きる。動けない。意欲がない。ただ義務感で部活行ってた。部活だけなぜか動ける。そこだけは体に染みついてる。意味が分からなかった。練習15分前にはなぜか動ける。練習中はなぜか真面目に練習してる。ただ体力は落ちてたし筋力もめっちゃ落ちてた。練習終わったらまた謎の時間。

 

あの頃には戻りたくない。やり直したくもない。

多分どうやってもあの状況に陥ってたと思う。

父親に言われたけど選手としてはもう限界やったんやろって。

まあそうだったと思う。身体も心も。

最後の一年ずっと怪我引きずってたし、やる気もなくなってたし。

かといってやめれる状況じゃないし、相談できる人もいなかった。

今思えば視野が狭いのとプライドが高かっただけだけど。

 

もう思い出したくないけど、いつかは向き合わないといけないとは思ってる。

今は発作はあれど普通に生活してる。

なんだかんだ今もつらいけど今は人と会話もするし遊んだりもできるから。

 

正直大変なことになったけど部活もなんとか復活して最後までやって今は人生がうまくいってる気がする。気がする。

 

でもいつまたうつになるかわからないなと思う。

結構な頻度で家で暴れてるし平日でもめちゃくちゃ酒飲むし一人でつぶれるし。

 

笑える。

すぐに自分を追い込む自分の性格を治したい。

社会に出る前に治したい。

 

はあしんどい。

更新めんどいからもうやめる。

また酒飲む。

アル中なるんかな。

 

早死にしそう。

ストレス、暴飲暴食。運動はしてるから大丈夫か。

 

 

まあいいや。

 

それでは。

お題スロットを使ってみる

ということでいつも気になっていたお題スロットを使う。

 

お題「ちょっとした贅沢」

 

ちょっとした贅沢。

 

こりゃ酒だね。

酒しかない。

 

がんばった!って思ったら酒を買ってくる。

自分でおつまみ作ってつまんで酒を飲む。

 

最近はまってるのはワイン。

理由は安いから。

 

自分チューハイあんまり好きじゃなくて買わないんですよね。

アイツ後味悪い。

 

ビールじゃ同じ金出しても酔えないから却下。

 

だからいつも焼酎、ワイン、ウイスキーあたりになる。

おっさんだなあ。

 

 

おつまみはだいたいキノコ系とか海鮮系で作ってるかな。

昨日はベビーホタテ安くて買ってたのでそれをちょいと炒めて食しました。

 

毎週のように酒飲んでるから正直お金つらい。

でも酒飲まないとやってけない。

 

なんか親父の気持ちが少しだけわかるようになったかな。

 

はあ今週は何飲もうかな。

 

 

 

ということでお題についてはこれぐらい。

さて次のお題は「カルアミルクは飲まないのか」です。

このブログのタイトル「カルアミルクを飲みたい。」なんですけど、

飲みたいなら飲めよって感じ。

 

なぜ飲まないのか。

そう、体が受け付けない。飲んだことないけど。

先輩に洗脳されたおかげで、カクテルというものを飲めない身体になった。

身体というか頭になった。

 

あれは私が酒を飲み始めたころ。20歳のころ。

先輩からビールと焼酎と日本酒とウイスキーとワインぐらいしか飲むことを許されていなかった私。

理由は、うまい酒を飲むと飲みすぎて死ぬ。(なんか納得してしまっている。)

 

 

そんな私の近くでカルアミルクを飲む輩がいたのである。

それを見てこいつはまずい酒を飲まないなんて甘ったれたやつだな、とか思ったわけで。

 

こんな雑魚にはなりたくねえなって心に誓ってしまった。

これ以降友人とでも家族とでも上記の酒くらいしか飲まなくなってしまったのである。

 

最近は禁断症状も少なくなってきて、焼酎をウーロン茶で割ったり、ワインをジュースで割ったりとかしてる。

 

まあただ梅酒だけは実家で作ってることもあってよく飲むんですけどね。

もう言ってることが矛盾しすぎてわけわかんない。

 

ということでこのブログの題名、つまりは私の名前の由来についての記事でした。

それではノシ