カルアミルクを飲みたい。

普通の人間になりたかった底辺学生の雑談。

暇なのだ。

また更新する。暇なのだ。
今日もまた突然変な話をする。

人が死ぬこと、それは機械が壊れて使えなくなることと同じなのではないかと考える。
人に限った話ではない。生命の話だ。
本来は機械が生命と同じような話だと言うべきなのだろう。
機械自体が人間という生命が生み出したものなのであるから。
人間は生命が死ぬということを何か神秘的なことと考えてしまうのだ。
だから人間が死ぬ、最近ではペットが死ぬということも当てはまるのであろうが、ということは、
特別なこと、大切なこと、他とは違うこと、ととらえるのではないだろうか。

人間は自分を特別だと思っている。
そんなことはしょうがない。
この世界で、この地球上でもっとも文明的に発展しているのが人間なのであろうし、
他の生物を管理しうるのも人間であろう。
恐らく人間がほとんどの他の生物の上に立つことになる。
こんなことを考えるのはきっと簡単なことだ。

人間にとって当たり前のことだから。


生物の頂点に立ち、食物連鎖によって他の生物に捕食されることもない。
捕食されない理由として、人間が文明を持ったことがあげられる。
文明を持ち、社会性を持ったこと、これにより、自分より大きな生物にも太刀打ちできるようになった。
また、他の生物と共生するという選択肢を積極的にとるのも人間だ。餌となる生物を自らの手で育てる。
これも立派な共生かもしれない。

だからこそ、人間は他の生物と違って捕食される恐怖、つまり死を身近に感じない。
これが人間が人間の死を特別視する理由であろう。
そうなのだ、人間が死ぬということは他の生物と比べても特別なことなのである。
特別というよりは、起こりにくいことなのである。これは事実である。

ペットも、人間から守られているという点では、やはり特別なのかもしれない。

 

さて、次の話だ。


我々は何のために生きているのか。


おそらく答えはない。
生きるという行為自体が能動的なものではなく、受動的なものであるから。


我々は生かされているのである。ある程度無理矢理。
生命現象という謎めいた機能により。
我々は機械とおんなじ。
たまたま人間は考える頭があって、感情とかなんとか手に入れてしまったから面倒なのである。

もちろん自ら死ぬこともできるが、本来備わった危機管理的な能力で必死に抑えられる。
それが機械的に行われているのである。

生命は少し柔軟な機械というのが妥当であろう。

 

その中で感情とか社会性とかそんなくだらないものを手に入れてしまった我々は、
無理矢理生かされているという事実から目を背けるために生きる理由なんかを考えてしまうのだ。


そもそも我々に能動的に生きる理由などないのだ。
あるとすれば、我々を動かしている機能がなぜ働いているのか、
その理由が我々が今こうして生命活動を行っている理由なのであろう。

 

 

結局、人間は人間の言葉でいう機械とほとんど変わらないのである。
人間の言葉でうまく言えば感情のある機械であろうか。
動くコンピューター。それでも良い。


人間以上の文明というものを見てみたいものである。
そもそも人間が価値があると思っているものが人間が創ってきたもの。
人間以外が人間の文明を超えることはおそらくできないのだろうけど。


どういうことかといえば、人間が創ったものは人間のためだけのもので、
アリのためのものではないということ。例えばの話だ。


だから何が見たいのかといえば、人間をいとも簡単に食い物にする存在である。
存在するのかはわからないけど、広い宇宙を探せば見つかるんじゃないかなって思ってる。

見つける前に見つけられそうだけど。


まあ想像の世界かもね。でも本当にあったら面白い、それくらいの話。
きっとその生命体(?)も我々と同じく機械みたいなものであるのだろうけど。

 

終わろう。
適当に書いてるとまとまらないしグダグダ。
ああ、文才がほしい。