カルアミルクを飲みたい。

普通の人間になりたかった底辺学生の雑談。

暇だからまた書く。

調子に乗っているのでは?と思うことがある。
ふとした時だ。


あのとき周りに少しだけ冷たい反応をされたのは自分が調子に乗っているからとか、
過去のいろんなことを思い出すたびにそう思ってしまう。

 

あと思ってしまうことは自分の中で家族以外で一番の人物はいても、
他の人にとって自分が一番になったことってないかもしれない、ってこと。


私は嫉妬深いというかやきもちを妬くタイプなのである。
自分にとってあいつは一番の友達のはずなのに、あいつにとって自分は一番じゃない。


そんなの当たり前である。
やっぱり自分メンヘラだったのか。

 

落ち込むばかりである。

 


まあそこら辺の思考回路はどうでもいいとして、
果たして私は誰かの一番になったことがあるのか、ということである。


愛されていたのか、ということである。
いよいよメンヘラが牙をむいてきた。

 

 

大変である。

 


周りからは、それなりに愛されている気はする。
でもそれは自分が振りまいている愛よりも少ないと感じてしまうのである。


一方であまり好きではない人に好かれる場合は大変だ。
自分があまり愛を振りまいていないのだから。


そこら辺を鑑みれば私は対等な立場を築きたいのだろう。
ただそれだけ。

 

後者に対しては自分がその人の良いところを見つけて時間をかけてでもいい関係にしていけばよい。
私は基本的に人を好き嫌いで見ないので、その辺は可能である。


得意か、不得意かで見るのである。まあでも基本的に、である。嫌いな人間もいる。もちろん。

 

 

さて、前者についてである。
私にとっては好意の対象である。
愛を振りまく量を減らせない。
この辺はヤンデレなのである。
好きな人間は病的に愛してしまうのかもしれない。
色々なことを理性で抑えているのは確かであるが。

 

昔言ったことがあるのだが私はメンヘラでヤンデレツンデレである。
とんだ変態だ。最後のツンデレはなんかかわいいけど。

 


さて私はヤンデレ的愛の提供をするのだが、
私はメンヘラでもあるのでその
対等以上の愛を求めるのだ。

 

愛されたい、ただのかまってちゃんであるのは間違いない。
でもその分、私は様々な形で愛を提供している。
だからその分の愛を提供される権利は有しているはずだ。

 


そんなことを言いたいのではないのだが。

 


なんというか、なぜそれだけの愛を振りまいておきながら自分が納得いく愛を享受できていないのか。

 


先ほどの話を踏まえれば一つは自分の愛が大きすぎる。
それゆえに求めるものが相対的に大きくなってしまう。
そしてもう一つは自分の愛の大きさを過信している。
そんなところ。


視点を変えれば、私の人間性というところに落ち着く。

 


その話をしたいのだ。
なぜ私が愛されるに足りない人間なのか。


まあこの文章を読めばよくわかるのかもしれない。
私にはわからないけど。

 


私は”いたって普通”という概念からかけ離れている人間だ。

 

 

だからこそこんな文章を書いているのだ。


私がただただ鈍感で愛を感じられていないだけなのかも知れないけれども。

 

 


さてさて、この文章はだれに向けて書いているわけでもない。

 

自分に向けて書いているのだ。基本的に私が文章を書くのは自分に向けてである。


これを読んだ自分が、これを書いた自分が少しでも変わればいいななんて思う。
人に合わせて変えなきゃいけない世界なんて窮屈すぎてやってけないのだけどね。

 

 

 

 

 

 ただのメンヘラ小話でした。